ドイツポーランド戦役-Case of the campaign by Napoleonic kernel-|サイフォンが放つ一人プレイ型タブレットウォーゲーム
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ドイツポーランド戦役

( ゲームデザイン:谷村勝一郎 )

ドイツポーランド戦役ってどんなゲーム?

 1805年12月、アウステルリッツの戦いに勝利したナポレオンは、神聖ローマ帝国を解体させて親フランス政権寄りのライン同盟を結成します。この事態にプロイセンが反発。イギリス、ロシア等と共に第4次対仏大同盟を結成しました。
 この事態にナポレオンはプロイセンへ侵攻し、フランスとプロイセン・ロシアとの会戦が行われました。フランスは当時、天才ナポレオンが率いる大陸最強の陸軍を保有していました。対するプロイセンは、フリードリッヒ大王(フリードリッヒ2世)時代、オーストリアやロシアなど周辺の大国と戦争を繰り返していた軍事強国です。大王は没していましたが、共に戦った将軍たちは未だ健在でした。
 こうした陸軍大国のフランスと、軍事強国プロイセン及びロシアとの戦いをナポレオンシリーズとして展開します。会戦のモチーフとしては「イエナ・アウエルシュタットの戦い」「アイラウの戦い」「フリートラントの戦い」を取り扱う予定です。


ドイツポーランド戦役とは

千年帝国の解体:皇帝と諸侯の独立

 1805年12月、アウステルリッツで生じたフランス軍vsオーストリア・ロシア連合軍との三帝会戦に勝利したナポレオンは、形骸化していた神聖ローマ帝国を解体させた。結果、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は帝国に含まれていなかったハンガリーと合わせて、オーストリア帝国皇帝フランツ1世として独立。その他諸侯の多くは、ライン同盟として親フランス政権となる。
 この時、神聖ローマ帝国を構成していたブランデンブルク選帝侯も、オーストリアと同様に神聖ローマ帝国に属さないプロイセンを所有していた為、こちらも晴れて帝国に束縛されないプロイセン王となった。だがフランスの影響が、ドイツにまで及ぶ事への危機感はくすぶり続けていた。

第4次対仏大同盟:フランスvsプロイセン

 ドイツ(旧神聖ローマ帝国領)にザクセンという選帝侯を輩出していた土地があり、その北方にハノーファーというプロイセン王の影響下の土地があった。ちなみに当時のイギリス王は、この地から出ているのでハノーファー朝と言う。このハノーファーをイギリスへ渡す話が出てきた事から、プロイセン王の不信感は爆発する。
 アウステルリッツの戦い時にプロイセンが傍観していた様に、今回はオーストリアが傍観する。両国は長年戦争していた間柄だったのでこの流れは致し方ないが、こうしてフランス対プロイセンの構図が出来上がった。両者は1806年10月にイエナ・アウエルシュタットの戦いで会戦したが、フランスが勝利を収めてそのままベルリンを制圧した。

ロシアの援軍:フランスvsロシア

 フランスに敗北したプロイセン王は、ベルリンを捨ててプロイセンへ逃亡。当然ながらフランス軍も追撃した。フリードリッヒ大王以来のプロイセン軍を失ったプロイセン王を支援したのは、アウステルリッツの戦いでオーストリアを支援したロシアだった。ロシアの援軍がプロイセンに到着し、冬に入り戦線は膠着した。
 この時、冬営していたフランス軍の中でネイの軍団が勝手に行動を開始。偶然ながら、迂回して奇襲を目指していたロシア軍と遭遇し、2月の真冬にアイラウの戦いが始まった。後年のロシア遠征を予感させる厳しい戦いとなった。この後、フランス軍は6月のフリートラントの戦いでロシア軍に勝利し、プロイセンの敗北が確定した。

その後:フランスの覇権とプロイセンの軍制改革

 敗北したプロイセン軍は、後の第一次世界大戦で敗北したドイツの如く厳しい制約を受けた。しかしながら、この敗北により悪い意味でのフリードリッヒ大王時代のしきたりから脱する事ができた。フランス軍の対する敗北が、プロイセン軍の軍制改革の始まりでもあったのである。
 対するフランス軍には絶頂期が訪れる。オーストリア、プロイセンという大国に勝利し、介入したロシア軍にも二度にわたり勝利したからだ。この後、ナポレオンはスペインの王位継承に介入、ゲリラ戦に悩まされるが、これを好機と見たオーストリアを再度屈服させ、ヨーロッパの覇権を手にするのであった。