コラム
戦国時代の世界史(1570~1600年頃)
続いて、日本の戦国時代における世界の流れを、主にヨーロッパの国々を中心に追ってみよう。
イスラム勢力を脅威に感じたヨーロッパ諸国は、それまでの地中海中心の世界から、大西洋へ乗り出し、西へ東へ外洋航路開拓へ躍起になる。だが宗教改革が勃発し、更に国家の介入が不幸な歴史を綴る事になる。
亀裂から分裂へ、そして対立へ。そんな暗雲とは別に、アジアへ進出していくエネルギーは尽きる事が無かった。
-大航海時代から貿易航路の開拓へ-
日本が戦国時代を迎えていたころ、世界もまた激動の時代を歩んでいた。
前世紀から始まっていた大航海時代は、1521年にマゼランによる世界一周という形でひとつの結実を得る。
この大航海時代による世界レベルでの貿易ルート開拓は、日本にも影響を与えている。日本はもともと東南アジアや中国との海上貿易ルートを有しており、東南アジアにヨーロッパが進出することで、必然的に文物の交流が始まっていたのだ。
一方これは同時に侵略と流血の歴史でもあり、1511年にはポルトガルがマラッカを占領、またマゼランが世界周航を成し遂げた同年、アステカがコルテスによって滅ぼされており、1533年にはインカ帝国がピサロによって滅ぼされた。
-イスラムの進入と宗教改革に揺れ動くキリスト教国家-
しかしながら、ヨーロッパ世界もまた内外で激しい動揺と戦乱に晒されていた。
外部からの圧力としては、オスマン・トルコ帝国最大の名君とされるスレイマン1世によるウィーン包囲が挙げられる。
1529年に行われた第1回ウィーン包囲では、ハプスブルグ家は辛うじてウィーンの死守に成功するも、その衝撃はヨーロッパ全土を揺るがすものだった。
また、ヨーロッパは内部でも激しく揺れ動いていた。最大の震源は、マルティン・ルターやカルヴァンらによる、宗教改革である。1517年に起草された「95ヶ条の論題」は、徐々にその影響力を強めていくことになる。
1524年にはドイツ南部・中部で社会的・経済的に抑圧されていた農民たちが蜂起、ここにドイツ農民戦争が勃発する。
この戦争において最も激しい運動を指導したのがトマス・ミュンツァーで、彼はルターの考え方を支持していたし、ルターもまた農民蜂起に同情的な態度を示していた。
だがルターがあくまで既存の社会システムの維持を唱えたことにトマス・ミュンツァーは反発、独自の理想を掲げて運動を継続する。
これに際しルターもまたミュンツァーの蜂起を強く非難し、1525年には神聖ローマ帝国諸侯の軍によってミュンツァーたちは撃滅された。
-新教と旧教の対立と国家の介入-
イングランドでは離婚問題を発端にヘンリー8世と教皇庁の対立が激化、1534年にはイギリス国教会が成立し、1538年にはときの教皇からヘンリー8世が破門されている。
ヘンリー8世は離婚問題が生じるまで熱心なカソリック教徒で、ルターを批判し「信仰の擁護者」という称号を教皇から授かるほどだったが、この対立をきっかけに、大法官だったトマス・モアを処刑するなど国内のカソリックを激しく弾圧するようになる。
フランスでは1562年、プロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれた)とカソリックによる大規模な内戦、ユグノー戦争が始まる。ユグノー戦争は1598年まで続き、その過程においてはサン・バルテルミの虐殺をはじめ大量の血が流されている。
プロテスタント勢力が拡大するかたわら、カソリック側では1534年、イエズス会が設立されている。イエズス会は強い軍隊的性格を持った組織で、教皇庁に全面的な忠誠を誓ったが、教会内部の腐敗に対する刷新が必要であることも強く主張した。
イエズス会は宣教師の派遣にも熱心で、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルもイエズス会のメンバーだ。
プロテスタントとカソリックの闘争は、単純に宗教だけに原因を求めることはできなかった。例えばユグノー戦争は、フランス国内におけるプロテスタントとカソリックの争いではあったが、その背後にはイギリスとスペインの争いが隠れていたし、フランス国内における派閥抗争とも強い関係を有していた。
またイタリアでは1527年、ルター派が多くを占めるドイツ傭兵によってローマが激しい略奪を受ける「ローマ劫掠」が発生しているが、これもまた教皇庁がフランスと手を組んだことに対し神聖ローマ帝国皇帝カール5世が軍を差し向けたという背景がある(カール5世はカソリック教徒)。
同様に、ハプスブルグ家の勢力を削ぐためにスレイマン1世がプロテスタントを援助するという事態も発生している。
-ヨーロッパでの闘争が終息しアジアへ進出-
このように、宗教改革の初期の段階から、プロテスタントとカソリックの争いは政治的闘争と無縁ではいられなかった。この宗教的情熱と政治闘争の混合は、1618年から始まる30年戦争において最悪の形で開花する。
現在のドイツを中心に戦われた30年戦争は、流行していたペストの被害とあわせ実にドイツ諸州の人口の3割(地方によってはもっと)が失われる凄惨な戦いとなり、ドイツの時計を大幅に逆戻りさせることになった。
ヨーロッパ国内における混乱が一旦の帰結を見るのは1648年、30年戦争の終結を待たねばならない。 だがその間にも、1600年頃にイギリスとオランダの東インド会社が相次いで設立された(1609年にはオランダ東インド会社が、1613年にはイギリス東インド会社が平戸に商館を置いている)。ヨーロッパの伸長は、止まらない動きとして世界に広がり続けていたのである。
(アトリエサード・徳岡正肇)
甲斐源氏・武田家と御旗楯無
甲斐の武田家が戦場に出る前に家中が揃って「御旗楯無もご照覧あれ」と唱和する。戦国時代を扱った小説やドラマではよく描かれる光景だ。ここで言う「御旗」は旗差物、「楯無」はそういう名前の鎧のことで、どちらも武田家重代の家宝である。そしてその由来は武田家の偉大なご先祖様、源 義光にある。
新羅三郎こと源 義光は、ご存じ八幡太郎こと源 義家の弟である。源 義家の直系が為義・義朝・頼朝と相模国の鎌倉を根城に東海道に沿って勢力を伸ばしていったのに対して、義光の血統は常陸国を本拠に定めた。初めて武田の名字を名乗ったのは義光の子である義清で、それは彼が常陸国那珂郡武田郷に定着したためである。ところがこの義清、子供の清光ともども常陸の国司と揉め事を起してしまい、甲斐国に流罪となる。この配流をきっかけとして甲斐源氏・武田家の歴史が始まるのだから、世の中は分からない。
清光の孫である武田信義は、源 頼朝とともに平氏打倒の挙兵に踏み切り、武田家の新たな歴史を作った。水鳥の羽音に驚いて平氏の軍勢が敗走したという伝説が有名な富士川の合戦。そこで主役を務めたのは武田信義および弟の安田義定であって、源 頼朝ではない。鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』の記述が不自然であることから、頼朝とその軍勢は富士川での戦闘に参加していないというのが現在の定説である。武田信義が駿河の守護、安田義定が遠江の守護に任ぜられたのは、彼ら甲斐源氏独自の成果を頼朝が追認した、というのが真相だろう。
信義の子である信光が甲斐国および安芸国の守護に任ぜられて以来、鎌倉時代・室町時代を通して武田家は甲斐の守護家であり続けた。南朝方に属した甲斐の武田家に代わって、分家である安芸の武田家が新たな惣領の血統となったり、上杉禅秀の乱に与した当主が廃されて出家した弟が新しい当主に立てられたりしながらも、全体として武田家としてのアイデンティティは保たれてきたのである。
そうしたアイデンティティの象徴が御旗と楯無だ。どちらも元来、源 義家・義光の父である頼義が、前九年の役に際して後冷泉天皇から賜った品とされている。御旗のほうは現在山梨県の雲峰寺に伝わり、日の丸デザインの旗の最も古い現存例とも言われる。
一方、頑丈な作りで楯が要らないことから名づけられたという楯無は菅田天神社に伝わり「小桜韋威鎧兜大袖付」として国宝に指定されている。ただし『平治物語』で義朝が着用したと語られる黒糸威の楯無鎧との関係など、やや謎の残るところではある。ちなみに義朝着用の楯無鎧は、雪の中に遺棄されたことになっている。
源 義光の子孫がおおぜいいる中で、なぜ武田家に御旗と楯無が伝来したのかがそもそも大きな謎なのだが、例えば同じく源 義光の子孫であり、義光の本拠地である常陸国を領した佐竹氏などに対して武田家の「正統」を主張するならば、御旗と楯無の伝来が有力な根拠になるのは確かだろう。もちろん家中を取りまとめるに際しても、その歴史の重みが威力を発揮したことは想像に難くない。
(白浜わたる)
室町幕府のじゃぶり方
実は戦国ストラテジーで、足利将軍を擁立して勝てるゲームはほとんどない。
信長が史実で傀儡として担いだ末に決裂していることがその原因だと思うのだが、
果たしてそう一概に決めてよいものだろうかとも思う。
というのも、決裂した後こそが戦国絵巻のクライマックスであり、そこで足利義昭はきちんと重要な役割を演じているからだ。
確かに信長包囲網は結果的に崩壊して、信長は窮地を脱するのだが、それは多分に武田信玄の急死という
幸運の産物であって、足利義昭が担う大義名分の効果とはあまり関係がない。
そもそも義昭を担ぐことに一定の効果が見込まれたからこそ、信長も上洛時に利用したのではなかったか?
そのうえ足利義昭の影響力が、
彼を担ぎ上げた信長との決裂で直ちに失われたわけでもないとすれば、彼を擁したうえで政権を安定させるという
選択肢が、なかったとは言い切れないだろう。
とはいえ、室町幕府の衣鉢を継ぐことは、その負債を抱え込むことでもある。なぜなら室町幕府とは、
荘園公領制が存続している時代の考え方で出来上がった政権であるからだ。
室町時代も後期になると、幕府の法廷には武士達に荘園を押領された公家や寺社による訴訟が頻々と
提起されるようになる。京に上って覇権を握った戦国大名が、幕府本来のあり方に沿ってこの問題を引き継ぎ、
解決できたかといえば、かなり疑問だ。
なぜなら荘園押領の主体とは、ほかならぬ戦国大名配下の武士達だったからである。
自分の権力基盤を構造的に掘り崩す要求の数々に、
果たして戦国大名が応えられただろうか?
史実で覇権を握った豊臣秀吉が、この問題をどう解決したかといえば、 ご存じ太閤検地で荘園公領制の枠組み自体をいったんチャラにして、有力な公家や寺社にあらためて所領を給付 したのである。これはもう、所領の考え方に関する一大変革であって、室町幕府の形や仕組みを出発点にしたのでは、 到達できない境地のように見える。
そんなこんなでこのゲームのエンディングをデザインする段階では、おおむね以下のように考えた。
足利将軍を擁して政治的な優位を築き、戦乱を終息させることはパワーバランスの問題として可能だろう。
だがいったん平和が訪れたとしても、所領の権利保障に関して折衷的な対応しかできない再版室町幕府(?)
は長期的に安定しないし、安定しないとなれば幕府の裁定に従わない有力者が出て、支持を集めるだろう。
結局、村々の自立と地侍・国人達の成長に権力基盤を据え、荘園公領制にトドメを刺せる新しい性格の政権が
待望される結果になる、と。
そもそも仮定に仮定を重ねた話であって、すでに歴史の話ですらなくなっているわけだが、
実はそう悪くない落としどころではないかと、ひそかに思っている。
ライター:白浜わたる(エンディング執筆担当)
観客としてのプレイヤー
ストラテジーゲームにおけるひとつの課題は、「プレイヤーとは何者か」という問題だ。
「プレイヤーはプレイヤーであって、それ以外の何者でもない」と言ってしまうのは簡単だが、
それはストラテジーゲームのあり方を弱めてしまう――「プレイヤーはひたすらにプレイヤーである」ならば、
ストラテジーゲームが選ばれる理由もなくなってしまう。
アクション性の有無、思考要素の大小、歴史的リサーチの反映といったものは、
あらゆるゲームに適用可能な要素であって、ストラテジーゲームの特権ではない。
ストラテジーゲームは、その始祖であるシミュレーションゲームの時代から、プレイヤーの立場には曖昧さがつきまとった。
プレイヤーは現実の指揮官よりも大きな権限を持ち、超自然的な千里眼を授かり、
そして100%的中する預言書(つまりは歴史書)を読んだ者として盤上に君臨する謎の存在であり、
その点については大半のストラテジーゲームも同様だ。
そしてそれには相応の理由があって、簡単に言えば「そうでないとゲームとして成立しない」からだ。
ストラテジーゲームに限らず、現実を右から左に持ってきただけでは、ゲームはゲーム足りえない。
この「ゲーム」と「シミュレーション」の端境における闘争は様々な解決を世に産み出してきたが、
一方で、まったく異なるものもまた提示されてきた。それは、「プレイヤーは観客」という視点である。
もちろん、完全にプレイヤーが観客一辺倒であれば、それは映画と変わらない。
そこには確かに、一定のインタラクティブ性はある。だがそのインタラクティブ性は、制限されたり、
あまり有効でなかったりしていて、しかしその制限は正しいシミュレーションとして納得できる――そんなゲームは、
実はずっと昔から存在してきた。
問題はむしろ、そんなゲームが面白いのかという点だが、こればかりはそれぞれのゲームについての各論に
ならざるを得ない。ただ言えるのは、優れたゲームは、負ける側に対して往々にして観客的な視点を提供するという
ことで、そこで発生する一種の落差はカタルシスとなる。
見ているしかない(できない)状況に追い込まれていく過程を体験し、それを楽しむというのは、
ゲームでしか達成できないエンタテイメントだ(現実でも可能だが、できれば御免被りたい)。
そういった確かなリアルを紡ぐ努力は、決して報われないものではないと思う。
(徳岡正肇)
戦国時代と「地方」の時代
我々はしばしば、国家というものがそこにあることを自明のように捉えている。
日本という国は、大昔からあって、今もあって、未来においても(たぶん)存在するのだ、というように。
しかしながら「日本」という国家が、ひとつの国家として意識され始めたのがいつ頃かという問題は、意外と難しい。
少なくとも、「平安時代に中央集権化が進んだ」といった記述を、例えばフランスにおける絶対王政のようなものが
成立していったかのように理解するのは、端的に言って誤りだ。
しばしば見られるのは、元寇によって「日本」という概念が成立した、という指摘だ。
これはあながち誤りではないであろうが、ならばなぜ、「日本」を防衛することに成功したのに、
鎌倉幕府が崩壊するのだろうか?
ここから言えるのは、日本という概念は元寇によって成立したかもしれないが、
それはまだまだ脆弱な概念でしかなかった――封建制の原則が履行されないことのほうが、「日本のパワープレイヤー」
にとっては重要だったということだ。
想像していただきたい。貴族階級を除けば30~40年前後が平均的な寿命(乳児期の死亡を除く)であり、
さらに最も早い移動(=通信)手段は船か馬だった時代において、例えば関東に居を構える武装農民が風の便りに
「元に勝った。負けたら俺たち全員奴隷だった」と聞いたとして、そこからどうやったらナショナルアイデンティティを
確立できるだろうか?
人間の一生は現代とは比較にもならないくらい短く、また物理的にも狭い範囲で完結していたのだ。
史料を追っていくと、「日本人」にとっての「この国」は、その後もそれほど拡張しない。
室町幕府は守護大名制を基盤とした武家の連合政権であり、堅固な中央集権国家ではなかった。
室町幕府の将軍が、暗殺されたり、亡命先で死亡していたりするのは、ひとつの象徴と言える。
そしてこの連合政権を構成する一員であるはずの「守護」にしても、守護は任命されているけれど実際には
現地の武装勢力が実効支配していたりするなど、その内実はカオスだった。
ここにおいて、室町幕府が崩壊していく過程は、同時に「地方」が成立していく過程でもあった。
そして戦国大名こそが、「地方」というある程度まで統一された行政単位を成立させていったのである。
(徳岡正肇)
ストラテジーゲームとプレイヤー
ストラテジーゲームは、ロールプレイングゲーム的な要素も持っている。
基本的にプレイヤーは「その時代に生きた何者かとして、その時代を戦い抜いていく」ことが求められているからだ。
しかし多くのストラテジーゲームは、「これはRPGでもあるんですよ」と胸を張っては言いがたい。
ストラテジーゲームのプレイヤーは、そのゲームの中における何者であるかが明確でないことが、ままあるのだ。
これはストラテジーゲームの元祖である、アナログの「ウォーゲーム」が発生したころから抱えている問題だ。 軍隊の指揮官として部隊を動かすということにはなっているが、例えば戦国時代であれば、 指揮官には敵がどれくらい損害を受けているか正確にはわからないし、味方がこちらの指示通りに作戦を進行させて いるかどうかも不確かだ。にもかかわらず、我々はそのすべてを知りうる立場としてゲームに参加することが多い。
ゲームジャンルの名称である「ストラテジーゲーム」というところに戻れば、
これは戦略を戦わせるゲームなのだから、それでいいのだということにもなるだろう。
だがそれならば、囲碁や将棋ではなく、ストラテジーゲームを選ぶ理由はどこにあるのだろう?
「よりリアルなゲームへの欲求」を言うのであれば、
そもプレイヤーとは何者なのかという根源的な問いに答えを返せないゲームのどこにリアルがあるのだろう?
ゲームはエンタテイメントであり、芸術作品ではないのだから、面白いことが最も大事だ。
けれどエンタテイメントがしばしばそうであるように、面白さを担保するために、「様式」という名前の
「前例」に依存しすぎてはいないだろうか?
「戦ノ国」では、プレイヤーが担当する大名が死ねば、そこでゲームは終了する。
最初これを聞いたとき、筆者としては「後継者争いもしてみたい」と思ったものだ。そのほうが面白いじゃないか、と。
けれど「プレイヤーは戦国大名である」という視点に立てば、むしろそこで終わるのが正しい。
そのかわり、「戦ノ国」でつむがれる歴史は、その「終わり」によって途切れたりはしない。
人の死はその個人史の終焉であって、歴史そのものの終焉ではないのだから。
「戦ノ国」は比較的短時間で決着するゲームではあるが、この「歴史」と「個人」の視点の取り方は、
コアなストラテジーゲーマーにとっても興味深いものではないだろうか。
(徳岡正肇)
武家はなぜ京を目指したのか
「戦国時代において、各地を支配する戦国大名は日本統一を目指し、 その手段の重要なひとつとして『上洛』が焦点となった」というのは、とりあえず「戦国モノ」と言えば 漠然と思い浮かぶイメージである。けれど近年、このイメージには疑問が持たれている。
そもそも戦国大名のなかで天下統一ということを考えたのは、織田信長だけであった可能性が高い。 信長がその発想を公にしてからは「統一」という目標が比較的共有されるようにはなったが、それでもなお、 天下統一はすべての戦国大名に共通する大目標ではなかった。事実、今川義元は自らのことを「守護」と述べているし、 上杉謙信は関東管領という地位に著しい執着を示したに留まる。 多くの戦国大名にとって最大の政治的目標は自国の維持管理であって、天下統一ではなかった。
ではいったい、なぜ信長は上洛を目指したのだろうか?
まず、自家の支配を安定させ、それを周囲に認めさせることを考えたとして、織田家にはあまりにも格が足りなかった。
立ちふさがる敵すべてを力でねじ伏せれば統一は可能だが、戦争せずに敵を屈服させるほうが効率は上だ。
そうなると、信長の敵対者(かつ信長に従いたいと思っている相手)に対し
「これほどの相手であれば従うのは当然である」という大義名分を与えてやることには、
大きな意味がある――なにしろ戦国大名というのは今風に言えば「地方の武装勢力」であるから、
メンツや格といったものは重要な位置を占める。
そして京および天皇は、信長に対して官位という形で伝統的な格を与えることが可能であり、 また「都」=最大の都市文化に対して強い影響力を持つ――当時朝廷は大嘗祭すらままならないほど極貧の極みに あったため行政能力は著しく後退しており、また武力を放棄していたので自力で京を実効支配することもできなかった ――ことは織田家に大いに箔をつけることになる。
信長が自分なりの時代のビジョンを持っていたことはほぼ疑いはないが、彼はそれを実現するために「旧時代」の 価値や様式を無闇に完全否定したり、全世界を敵に回しても構わないと考えたりするほどの、夢見る革命家ではなかった。
そしてまた、本当に無価値と判断したものに対しては、一切の遠慮もしなかった。
利用できるものはとことん利用し、損害が利益を上回るなら打倒する。その徹底したリアリズムが、ここには見て取れる。
(徳岡正肇)
戦乱の時代の終わり方と、ゲームの終わり方
戦国時代を扱ったゲームは、大抵の場合、「天下統一」がゲームの終着点となる。 ゲームは基本的に陣取りであり、地図を自分の勢力の色で塗りつぶすことがゲームの目的となる。 けれどこれは、「戦国ゲームは必ずそうでなくてはならない」という理由にはならない。
そもそも、天下統一というのは織田信長が掲げたきわめてユニークなビジョンであって、
そこに彼の実行力が加味されたからこそ、戦国時代は統一という結果で幕を閉じたに過ぎない。
もし信長が国内統一の段階で早々に戦没・病没していたら、果たして戦国時代が統一政権の誕生で終止符を
打たれていたかどうか、明言はできないのだ。「複数の地方政権による分断統治が行われていた可能性」は、
研究者のあいだでも十分にあり得る帰結として検討されている。
つまるところ、統一は、ゲームのひとつの可能性に過ぎない。であるならば、歴史を素材としたゲームにおいては、 「統一されなかった日本」もエンディングとしてあるべきだ。
それだけではない。史実における戦国大名のほとんどは、天下統一という流れのなかにおいて、 メジャープレイヤーではなかった。最終的に譜代・外様と分類されるように、「同盟者」あるいは「降伏した敵対者」 として次の時代を迎えた戦国大名のほうが、圧倒的に多い。
こういったエンディングは、従来の戦国ゲームの多くにおいて意図的に無視されてきたように思う。 そこにあるのは栄光か死であって、プレイヤーは最終的に統一か滅亡かのどちらかの状態にしか置かれない。 ゲームとして分かりやすいが、それは現実を見ていない。
もし「戦国ゲーム」はすなわち地図の色塗りゲームであって、最終的に地図が自分の国の色で塗りつぶされることが ゲームの最大の楽しみなのだと考えているのであれば、「そうではない楽しさ」を持った 作品も探してみてはどうだろうか。
勝者のジレンマや、敗者の決断を追体験する面白さ。自分の決断がときに歴史を作り、ときに歴史に押しつぶされる、
言葉にし難いままならなさ。世界にはそういった興味を満足させる作品は確かに存在しているし、
「戦ノ国」もまたその領域に迫ろうとしている。
(徳岡正肇)