源平コラム
保元・平治の乱(Si-phonGameClub号外2012夏号より転載)
大河ドラマ平清盛で、保元の乱が放送され、話は平治の乱へと続く。そこからの話は、以仁王の挙兵から治承・寿永の乱へ続くだろう。歴史の教科書に登場するこうした有名な戦いも、ドラマ化される事は希である。
そこで今回は、国際通信社から発売されているウォーゲーム日本史「清盛軍記」も使い、保元・平治の乱をご紹介しよう。これら合戦はいかなる合戦であったのだろうか。
【頼長と信西】
保元の乱と平治の乱は、この二人の存在無しには語れない。
藤原頼長は摂関家を代表するエリートである。聖徳太子の理念へ回帰するかの如く、政治の刷新を強引に推し進めるが、当然ながら、社会から反発を受ける。
出自が劣る信西(藤原通憲)も、似た様な路線を取った。
【保元の乱へ】
反発を受けた頼長は孤立を深める。反発を受けた理由は、他の皇族・貴族・寺社の利権に踏み込んだからである。
こうして、頼長と反・頼長勢力との戦いとなったのが、保元の乱である。当時の武士は、皇族や貴族に仕える立場であり、独自の判断で動く事はできない。仕えている親分が、どちらにつくかが問題となる。
軍記物『保元物語』では、源為義の子である鎮西八郎為朝の活躍が、大いに目を引く。大河ドラマでもそうであった様に、夜襲を献策し一人活躍するも敗れた。ドラマの中では無かったが、兄・義朝との言葉のやり取りは絶妙に描写されている。
ともあれ、反・頼長陣営の勝利として、乱は終息する。
【平治の乱へ】
保元の乱が終わると、頼長に代わり信西が表に出てくる。ただこの信西も、性格は頼長と似たり寄ったりである。真面目すぎるその性格は、反・信西勢力を形成させた。
そうして、信西の殺害を目的とするクーデターが発生した。これが、平治の乱の始まりである。
悪源太義平-鎌倉殿の兄者は勇ましきエージェント-
用意周到に進められた信西暗殺クーデターは成功し、まとまりの無い反信西派は分裂し、都へ戻ってきた平氏との戦いが始まろうとしている。
義平 「なぜ打って出ぬ」
熊野から戻ってくる前に、阿倍野で迎え撃つ献策は、藤原信頼によって退けられた。その平家一行が、体制を整えて都へ戻ってきた。
重盛 「我こそは平清盛の長男・重盛なるぞ!ここは長男同士で一騎討ちを果たそうではないか」
義平 「貴様では相手にならん!」
数で勝る平氏方であったが、悪源太の異名を持つ義平の攻撃に、たじろいでしまう。父・義朝の思いが乗り移った化身の如く、力強き義平の無双劇に、もう誰も手が付けられない。
義平 「我と思わん者は、寄れや!寄れ!」
頼政 「………」
義平 「あそこに見えるは、摂津の頼政ではないか!なぜ動かん!」
源頼政は美福門院に近い摂津源氏である。その為、二条天皇方として藤原信頼・源義朝らと手を組んでいた。目的が達成できた以上、彼らと手を組み続ける理由が無く、動かずにいたのだ。同じ理由で、摂津源氏の源光保も動かない。
義平 「さては裏切ったか?」
義平の軍は頼政と光保へ突進する。突然、軍を向けられた頼政らは、清盛方に付く事となる。この時、十三歳の頼朝にしてみると、この義平の存在はあまりにも強く、頼もしく映った事だろう。
悪源太の「悪」は、強いという意味である。強すぎる源氏の長男坊という意味なのだが、これほどまでに源氏の存在感を表現できる人物は、そういない。一世一代の傑物である。
だが多勢に無勢、じわじわと平家方に押し返され、義朝一行は東へ落ちる。
しかし落ちる途中、義朝は裏切られ、尾張で斬られてしまう。
義朝の意思を受け継ぐ義平は、京へ戻り、清盛の首を狙うも捕まり首を刎ねられたが、その最後は、刎ねた者が雷に撃たれて死ぬほど、凄まじきものであったという。
【暗躍の魔都】
京の都は魔都である。そこには、様々な利権が渦巻いているからだ。
保元の乱で、頼長が討たれた事で摂関家は打撃を受けた。続く平治の乱で、信西が討たれた事で、藤原氏を中心とする政治の場は、次第に平家を中心とするものへ移行していく。
その平家であっても、本当に安泰であったかと言うと、清盛が福原へ遷都を目指した様に、不安定な要因が多く残っていた。
源氏の場合、源義家が前九年・後三年の役で活躍し、河内源氏の礎を築くも、その長男の義親が反乱を起こしたとして、清盛の祖父である平正盛に討たれた。後を継いだ義親の弟・義忠は、京に残った為、平正盛と子の忠盛と親しくなる。すると叔父に暗殺された。その為、後を継いだ源為義は、不遇な人生を歩む。その為義と子の義朝は、保元の乱で対する事となり、義朝は勝利側となるも、父を斬る事となる。
また摂津源氏も、保元の乱で敵味方に別れ戦い、続く平治の乱では、途中で離脱するものの、源光保は流刑先で殺されてしまう。
残った源頼政も、以仁王の挙兵に従い、討ち取られる。
こうした状況から、頼朝にとって京で政へ参加する事は、身を滅ぼすに等しい事と映っただろう。義家・義朝が築いてきた東国の基盤に乗っかり、その地より政治を行う姿勢は、斬新な様で、実は現実的な路線であるとも言える。
後に開かれる鎌倉幕府の支配権は、そう大きくないと言われている。この時、守護・地頭が置かれているが、まだ、国府を掌握する事ができていないからだ。
守護が国府を掌握するのは、室町時代になってからであり、ここで国府と国衙が消滅していき、戦国時代へ進む準備が整って行く。
現在の鎌倉幕府感は、江戸から明治時代に形成された価値観が多いのではないだろうか。
そうした脆弱な基盤にある頼朝は、一族の中で珍しく、兄・義平を称え続けた。勇ましき兄の姿にすがりたかったのかもしれない。
(コラム)貴族から武士へ-源氏と平氏-
【中世の社会構造】
荘園制度は、日本の中世社会を語る上で、重要な制度のひとつである。だが、教科書にも出てくるこの言葉の意味は、あまり知られていない。
荘園の発生は、奈良時代の墾田永年私財法に拠るとされる。荒廃した耕作地を減らす事を目的とし、国に申請する事で、その土地の所有権を得るという法である。要は、国がその土地の所有権を認める代わりに、耕作して税を納めなさいという事である。
所有権を得るとあるが、言わば使用権である。国が所有を保障するので、耕作して税を納めよ。という仕組みだ。そこで、こうした仕組みを利用して、身分の高い人が自分の土地を拡大していく。皇族や貴族がそうである。
この流れで、自分で土地を使える様に開拓すると、身近な身分の高い人へ寄進して、その人から身分を保障して貰える様になり、荘園は拡大していく。こうした皇族や貴族の用心棒として、武士階級が形成される。また、寺社勢力もこの流れに乗っていく。
中世社会の特徴である土地を介する主従関係は、こうした荘園制度に始まるとも言える。
【源平時代の武士】
平安時代の武士とは、こうした荘園領主に仕える存在である。誰に仕えるかが重要であり、仕えている主に従う。そうして時代が経つと、功績を積み官位を上げ、直接荘園運営に乗り出す者も出てくる。
保元・平治の乱の頃は、ちょうど、そうした流れへ移り変わる時代と言える。平治の乱で登場する摂津源氏に、源頼政・源光保がいる。彼らは以前より美福門院に近く、途中で、美福門院の支持する二条天皇が居なくなった事から、藤原信頼・源義朝の側から離脱した。
これはこの時代の事を考えると、道理に適った行動である。清盛軍記の平治シナリオにおいて、二条天皇ユニットがなく、この二人は裏切る要素を持っている。ここで二条天皇のユニットがある場合に、二人の裏切りがおかしく見える事を考えると、この時代のリサーチの反映がきちんと行われている事がわかる。
【源平争乱】
ここで、治承寿永の乱時にとった源頼朝の行動を見てみよう。源義仲と争う前に行った、朝廷とのやりとりの中に、平家に掌握されていた荘園を取り返してお返しするというものがある。
当然ながら、朝廷は大喜び。結果、義仲は見切られた。大義を得た頼朝軍は、人が集まり、義仲・平家を破り鎌倉幕府を樹立する。
つまり戦国時代と違って、武士が勝手に闘争を行っていた訳ではない。戦うにも、正当な理由が必要であった。
この時代を描いたゲームが『源平争乱』である。支持を集め、兵を集め、負ける事でこれらを失う。そうしたゲームに仕上げている。またウォーゲーム日本史『源平合戦』では、そうした頼朝と朝廷とのやりとりの後、義仲との激突の場面から楽しめる。
源平コラム(Si-phonGameClub別冊2号より転載)
【争乱の起点となった「以仁王の叛乱」とは?】
治承・寿永の内乱の発火点といえば、ご存じ「以仁王の叛乱」だが、瞬く間に鎮圧されてしまったこともあって、そこに含まれる興味深い論点があまり話題に上らない。そこで、この叛乱が持つ意味について、簡単に整理しておこう。
平氏はいわゆる治承三年(一一七九年)のクーデターで後白河法皇を幽閉し、平氏一門の知行国を十七か国から三十二か国へと増やす。叛乱の目標はまずもって、こうした中央政治における異常事態を解消することだった。
以仁は摂津源氏・源 頼政と密かに事を図ったうえで治承四年(一一八〇年)五月十五日に挙兵したが、この叛乱は平氏にとってかなり予想外の事件だったらしい。鎮圧の初動段階で以仁の三条高倉邸に向かった検非違使・源 兼綱は頼政の子であるし、追討使の候補には源 頼政その人が挙がっていたくらいだ。とはいえ叛乱側も準備不足であり、頼りにしていた延暦寺・園城寺の協力も十分に取り付けられないまま、大和の興福寺に向けて離脱する途上で、二人とも討たれてしまった。
この叛乱には木曾義仲の異母兄である源 仲家も参加し、命を落としている。父親の帯刀先生義賢が殺害されたとき、義仲は信濃の中原兼遠に匿われたのだが、同様に兄の仲家は源 頼政に保護された。別々に育った仲家と義仲が親しく連絡を取り合っていたわけではないだろうが、義仲挙兵にいたるバックボーンの一つとして憶えておきたい。
【幻に終わった以仁即位】
以仁はあっけなく討たれたものの、彼が諸国の源氏に決起を呼びかけた令旨は、新宮十郎行家の手で頼朝や義仲の手にもたらされ、各地に叛乱の火の手を広げていく。この令旨で重要なのは、以仁が自らの即位を宣言していた点だ。令旨を奉じて信濃で兵を挙げた木曾義仲は、以仁の遺児である北陸宮を庇護しており、義仲上洛の大義名分の一つは、この北陸宮の擁立だった。
平氏の傀儡であった高倉天皇の皇統(ちなみに安徳天皇は高倉天皇の子である)を否定し、高倉の兄弟である以仁の、忘れ形見を擁立する……。それは確かに分かりやすい政治スローガンであったはずだが、治天の君・後白河の意思として、尊重すべき皇統はあくまで高倉のものだった。安徳を廃して立てられた後鳥羽天皇は、高倉の第四皇子である。
以仁王という通称からも分かるとおり、以仁は親王宣下すら受けられなかった不遇の皇子であり、以仁にとって反平氏叛乱は、功績を稼いで不本意な地位から脱するための挑戦であった。そしてその挑戦は、以仁自身が叛乱を成功裡に戦い抜いてこそ意味を持つのであって、あえなく散った以仁は、木曾義仲や北陸宮が継承するに値する地位を、そもそも手にしていない。
上洛する義仲を尻目に後白河との連携に成功した頼朝は皇位継承に容喙することなく、居ながらにして平氏追討に関する勲功第一の地位を手に入れ、東海道・東山道の実効支配を公認された。時に寿永二年十月。義仲が後白河を敵とする法住寺合戦の、一か月ほど前のことだった。
源平コラム(Si-phonGameClub別冊2号より転載)
【源平武士の日和見と寝返り】
織豊政権期以降の鉢植え武士をサラリーマンにたとえるなら、源平の武士は自営業である。自分が開発領主の一族であるにせよ、ないにせよ、領家(荘園の上位所有権者)に対してどれだけ真面目に年貢を納めるか、私腹を肥やすために何かと面倒なことを言い出す国司目代に、どこまで付き合うかなど、領地経営にまつわる実務と判断に関しては、自分で全責任を負う。
【任意参加の戦争】
源平の頃の武士達は、軍事行動のへの参加についても、その都度自分の責任と判断で参加・不参加を決めていた。軍勢催促を行うための廻文(めぐらしぶみ)では、不参の場合の処罰が一種の決まり文句として予告されているものの、実際に処罰できるケースなど、ほとんどなかったと思われる。もちろん、初めから敵方への加担を疑われている場合や、催促する側が奥州合戦時の頼朝のように、押しも押されぬ強大な権力者の場合は、話が別だが。
平氏が甲斐源氏および頼朝を討つべく東海道方面に追討軍を派遣した富士川の戦いで、京を出発した平 維盛軍はわずか四千人だった。出発時の兵力が少ないことは別におかしくない。当時の慣習として、朝敵の追討使は通過する国々で「宣旨を読み掛け」て武士達の参陣を募り、追討軍に合流させることで大軍を組織したからだ。
富士川の戦いで平氏方はまさにこのやり方を採ったのだが、東海道諸国の武士達が源氏方の勢威を恐れて追討軍に参加せず、結果として満足に戦える人数にならなかったのだ。個々の武士達は勝敗の行方をある程度見越して、あるいは覚悟を固め、あるいは打算的に、参加・不参加を決めたのである。
【実力者こそ主君】
当時の武士の社会的スタンスを考えるうえで示唆的な逸話を『平家物語』最古の写本「延慶本」からもう一つ拾ってみよう。平氏の拠点である屋島を襲撃すべく、嵐をついて阿波に押し渡った義経勢に、現地の在庁官人・近藤親家の手勢が近づいてくる。源平どちらの味方か問う義経に、親家は「源氏にても渡らせ給え、平氏にても渡らせ給え、世を討取せ給て、我国の主とならせ給む人を、主と憑進せ候べし」と、非常にあけすけな返答をする。
阿波の近藤氏はもともと、平氏の有力な家人である阿波民部重能ら田口氏と、対立関係にあるはず…というポピュラーな推測を別にしても、源氏の味方をすべく合流するならば、もったいつけて殊勝なことを言ったほうが、指揮官の印象に残り、恩賞にもあずかりやすいはずだ。また物語の作者の視点で見ても、ここは何かしらドラマチックなセリフを吐かせたい場面ではあるまいか?
にもかかわらず、延慶本『平家物語』はわざわざ親家に身もフタもないセリフを吐かせている。だとすればこれこそが、鎌倉時代中期(延慶本成立時期)の時点から振り返った、源平の戦いの雰囲気、納得できるイメージなのではないだろうか?
PCゲーム『源平争乱』の、あまり類例を見ない日和見・寝返り武士団描写の背景には、こういった考察が控えていたりするのである。
源平コラム (Si-phonGameClubVol.5より転載)
【源平争乱期の戦争と義経の奇襲】
源平合戦の実像については分からないことだらけなのだが、気になる点を少しだけ考察してみよう。
まず兵力の召集について。味方として期待されている武士団に向けては、国ごとに「廻文」(めぐらしぶみ)と呼ばれる文書が発せられる。そこには武士団がリストアップされて、日時や集合場所が示され、召集に応じた者への恩賞、応じなかったものへの処罰が予告される。ある武士団が返事を書き込んだら次の武士団に回すという回覧板形式になっていて、これは国司の役所が国内の武士団を把握/動員する国衙軍制の伝統を受け継いでいるらしい。ただし、鎌倉時代末期に原型が成立した延慶本『平家物語』で石橋山の合戦のくだりを見ると、藤九郎盛長が廻文を携えて武士団を順に訪問し、その場で返答をもらっている。廻文という慣習が浸透している一方で、例えば緊急性が高く、色良い返答が期待しにくい局面では、臨機応変にやり方を変えたのかもしれない。
平家が諸国荘園・公領ごとに税として「兵士役」(ひょうじやく)を課し、人を駆り集めたことは有名だが、 最近の研究では、集められた人々はもっぱら堀や逆茂木といった戦闘施設の構築に動員されたのではないかと見られている。 平家の軍勢が、無理矢理動員された素人を多数含んでいたがゆえに弱体だったというのは、さすがに偏見のようだ。
集まった武士団がどのように編成されたかも詳細不明だが、例えば延慶本『平家物語』で一の谷の合戦における義経軍、範頼軍の顔ぶれに触れたくだりを見ると、大将軍たる義経、範頼の下にそれぞれ将軍格七~八名、侍大将軍四十人ほどとなっている。ここに言う侍大将軍が、戦国時代に一軍ないし備一つを統括した実務ポストとしての 「侍大将」でないのは明らかだ。将軍格は主として源氏の一族で、いわば頼朝の盟友たち。 いっぽう侍大将軍は諸国の有力な武士だ。侍大将軍が率いているのはおそらく地縁血縁に基づく固有の配下なので切り離し不能だろう。そうした侍大将軍たちを必要に応じて各将軍に分属させたと思われる。
重要なのは、こうした大規模な軍の編成がめったになかったことだ。平治の乱から二十年、数年にわたる大規模な戦争に限れば後三年の役なので百年前である。もともと独立性が高いうえ、ぶっつけ本番で編成された大軍勢に、高度な指揮統制能力などあるまい。平家の北陸遠征軍は、将軍同士の連携のまずさから敗北したと見られているし、『平家物語』諸本で武士たちが しきりに述べるのは「取り込められては叶うまじ」というセリフだ。自軍と敵軍の全体的な状況が情報として共有されないため、常に包囲に対する不安に苛まれる。予想外の方向から敵が現れたら、そこにいた味方は潰滅したと判断するほかない。世に名高い義経の奇襲を成り立たせたのは、そういった情報伝達の不備ではないだろうか。孤立したという不安に駆られた防御側の大軍が、孤立をはじめから自覚している少数の攻撃者を前にして機能不全に陥る。 「防御は攻撃よりもいっそう強力な戦闘形式」という近代戦の原則を、考えなしに当てはめてはいけないようだ。
白浜 わたる
源平コラム (Si-phonGameClubVol.4より転載)
【頼朝に東国独立は可能だったか?】
伊豆の流人・源 頼朝が関東を基盤に勢力を築き、やがて軍勢を上洛させて京を掌握、新政権を樹立する……。 頼朝の覇業は『吾妻鏡』のなかで「天下草創」と述べられているし、表面上の展開だけを言葉にすると、 それはまるで戦国時代における国盗り合戦であるかのように思えてしまう。 だが源平の争乱と戦国時代には、似ても似つかぬ部分が多々あることを、明確に認識しておきたい。
そもそも頼朝の挙兵は、以仁王の令旨を大義名分として始まっている。
後白河法皇の第三皇子である以仁は、後白河を幽閉した平氏を打倒し、自らが皇位に即くことを宣言して挙兵するも、 平氏に討たれた。この挙兵に当たって諸国の源氏に向けて発せられた令旨が、頼朝の叛乱の正統性を担ったのである。
平治の乱以前に遡れば、頼朝はもともと平氏と並んで院に重用されていた源氏の本流であって、 以仁の呼びかけに応えるのに最もふさわしい人物である。つまり源平の争乱は、始めから終わりまで中央政治が争点なのであり、 一地方勢力が成り上がって、たまたま都を手にしたという話ではない。
また、伊豆における頼朝が一介の流人で、挙兵以前に確たる権力基盤などなかった点にも注意しておきたい。奇貨置くべし。 中央での政争に敗れて失脚した大人物の子弟を、いつか自分達に有利なカードとして利用できるかもしれないのでキープしておく。 それが北条氏のもとにおける頼朝の流人生活だ。おそらく信濃の中原氏にとっての義仲、奥州藤原氏にとっての義経、 土佐の夜須氏にとっての希義(まれよし)も同様だったろう。
頼朝の蜂起は最終的に成功し、わずか4年で京を掌握、そこから1年で平氏を討ち滅ぼした。この展開の速さは何を意味しているか? 全国の武士達は頼朝や平氏一門、後白河らと同じ地平で中央情勢を読み取り、主体的に去就を決めていたということだ。
戦国時代のように、現地勢力が強固にまとまって衝突を繰り返していたならば、義仲はもっと粘ったであろうし、 平氏の勢力が速やかに瓦解することもなかったろう。勝者である頼朝陣営も含め、この時代は個々の武士団こそが主人公であって、 頼朝も義仲も平氏一門も担がれた神輿、旗振り役にすぎない。中央情勢と切り離されたところで独自の求心力を持っているかといえば、 答えはノーだ。
戦いに勝って個々の地域を制圧できるかどうかよりも、その勝利を各地の有力者がどのように受け取るかのほうが、 さらに重要である。あるいは打ち立てた業績や、当面の敵に対する優勢・劣勢よりも、自陣営が将来的にどれだけ有望と見られているかが重要である……。頼朝や義仲が展開したのはそのような、まさしく政治的、プレゼンテーション的な戦争であったと思われる。有力御家人であった上総介広常の言葉と結びつけてしばしば語られる鎌倉幕府の東国独立論であるが、後白河法皇による承認なしに頼朝権力の安定はないというのが、頼朝自身の下した判断だったのである。
白浜わたる
もののふコラム (Si-phonGameClubVol.5より転載)
【武門の長=征夷大将軍に必要性はあるか?】
法住寺合戦で後白河法皇を屈服させた木曾義仲が、翌年早々に征夷大将軍となる。その報せを聞いた源 頼朝は自らが望んでいた官職だけに、心中まことに穏やかでなかった……。これが鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が記す、寿永三(一一八三)年初頭の政治情勢である。征夷大将軍が頼朝以来実に七百年近く、武家の最高権力者を意味する地位であり続けたがゆえに、『吾妻鏡』の記述はその原点として早くから注目され、基本的に信じられてきた。だがつい最近、この記述の信憑性を決定的に揺るがす発見があったのを、読者はご存じだろうか?
それは『三槐荒涼抜書要』という史料の読解が完了したことによる。同書には平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて政務に携わった公卿・中山忠親の日記『山槐記』の断片が含まれており、その建久三(一一九二)年九月条には頼朝の就任経緯が記されている。それによると頼朝が望んだのは「大将軍」であって、征夷大将軍ではない。頼朝の希望を受けて朝廷が検討したのは「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つ。このうち惣官は平 宗盛、征東大将軍は木曾義仲の例に照らして「不快」、さりとて上将軍は日本に例がない。それに引き替え征夷大将軍は、坂上田村麻呂の例を見ても適切なので採用された、と。
後世の編纂物である『吾妻鏡』よりも、同時代の貴族の日記のほうが遥かに信頼性が高い。かくして義仲が就任したのは征東大将軍であり、また頼朝は別に征夷大将軍にこだわったわけでないことが、二○○四年になって明らかにされた。なるほど征「東」大将軍であれば、『平家物語』における義仲の名乗り「朝日の将軍」「旭将軍」も、しっくり来るわけである。
では頼朝が望んだ大将軍にはどんな意味があったのか。源平争乱期における戦争の実像について精力的に考察する川合 康氏の説に学ぶなら、頼朝靡下には鎮守府将軍・藤原秀郷やら余五将軍・平 維茂やらの子孫を自認する武士たちがゴロゴロいたので、彼らよりも格上であることを明示しなければならなかったから、となる。頼朝の望んだのが単に大将軍であった以上、征夷の字に引かれて藤原秀衡=鎮守府将軍との対抗関係を強調してきた従来の研究史のニュアンスには、大いに再検討の余地があるだろう。
とはいえ、いっぽうで頼朝がことあるごとに四代前のご先祖である鎮守府将軍・源 頼義の故事にこだわったのも事実である。現代日本人たる我々は、頼義よりも義家が重要であるように見てしまいがちだが、武田信義や佐竹隆義、山本義経のように、義家の弟である義光の子孫たちが相応の権威を保っていたのが源平争乱期。 例えば『源平盛衰記』で武田信義は義家・義綱・義光それぞれの血統について「一門更に勝劣なし」と述べたことになっている。そんな発言が実在したかどうかはともかく、確かに鎌倉時代の相続慣行に照らして見たとき、義光流が義家流に対してことさら強い引け目を感じていたとは思えない。それゆえ頼朝は、義家・義光の父たる頼義までさかのぼったうえで、正統な後継者であることを示さねばならなかったのだろう。
まあそれはさておき、どうかすると足利将軍や徳川将軍まで「惣官さま」になっていたかもしれないというのは、ちょっと楽しい話だ。
白浜わたる
もののふコラム (Si-phonGameClubVol.4より転載)
【佐竹家の家紋の由来とは?】
戦国時代に詳しい人にとって佐竹家といえば、北関東で根強く後北条氏に抵抗した大名家というイメージが強いだろう。また、石田三成に受けた恩から関ケ原では逡巡しながらも西軍につき、秋田に転封になった話なども有名だ。秋田美人は佐竹家の転封に由来するという俗説や、天守閣のない久保田城の話、『梅津政景日記』に「渋江田法」と、織豊期から江戸時代初期にかけての逸話や史料が豊富に残っている。佐竹侯爵家以降の話はさておくとしても、明治維新まで残った長命な戦国大名家ならではの状況といえよう。
だが驚くのはまだ早い。佐竹家の祖は武田家と同じく、八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光であり、常陸国久慈郡佐竹郷に定着したのは平安時代の末期である。源 頼朝が挙兵して源平が争う頃の当主・佐竹隆義は、平氏と結んで常陸北部に勢力を振るっていた。
『吾妻鏡』によると、富士川の戦いを経て平氏の西からの圧力が弱まった段階で頼朝は、平氏の軍勢を追撃して即座に上洛を目指そうと考えた。だが、配下の御家人達がこれを制し、まず関東の地盤固めを優先すべきだと進言したことにより、頼朝は上洛を断念する。その代わりに行われたのが佐竹征伐である。当主の佐竹隆義は平氏に従って上洛中であったため、子の秀義が中心となって頼朝勢に抵抗したものの、叔父である義季の内応もあって佐竹勢は敗北、奥州に逃れた。
隆義の死後、秀義率いる佐竹勢は頼朝に許されて帰参し、奥州合戦に動員されている。頼朝が奥州藤原氏を攻めたこの戦いに、佐竹勢は源氏の一族として白い旗を掲げて参陣した。だが頼朝はこれを見咎め、源氏の本流たる頼朝自身の旗印と紛らわしいからと、「月の出」を描いた扇を与えて、佐竹勢の白旗の上に付けるよう命じた。
『吾妻鏡』に記されたこのエピソードが、佐竹家の家紋「五本骨扇に月丸」の由来だ。家紋のデザイン一つとっても、源平時代に遡る明確な由緒があるというのは、なかなか驚くべき歴史の長さではある。
ところでこの逸話について、ちょっとした深読みを試みるならば、諸国に散らばる河内源氏の末流のなかで、頼朝が正統正嫡であることは必ずしも自明の理でなく、当の頼朝自身がイメージ作りにいかに心を砕いていたか……という構図にも読める。
よく知られているように、鎌倉時代において親の所領は分割相続されるのが普通であり、後世と違って長子単独相続ではなかった。源氏の本流たるべき頼朝の地位も、今日我々が想像するよりずっと揺らぎやすいものだったのではないだろうか?義家の名声を享けて頼朝の地位があったのは事実だが、それは結果論であって、仮にどこかで義光流が本流になっていたとしても、当時の人々はそれほど違和感を持たなかっただろう。頼朝が、弟の義経、従兄弟の義仲に対してことさらに格の違いを見せつけねばならなかったのも、もともと世間的に同格と見られがちだったという、現実の反映に思われる。
白浜わたる
ゲームコラム (Si-phonGameClubVol.5より転載)
【生存戦略としての軍隊-支持は得られているか-】
戦争というと、兵士たちが殺し合い、大火力の砲が火を吹くといった、実際の戦場のことを想像しがちだ。なかには民間人の疎開や空襲といったイメージを重ねる方もいるだろう。
しかしこれらは、戦争における、限られた側面でしかない。戦争、特に総力戦とは、国家単位で行われる巨大な団体行動であり、そこから実際の軍事行動や個別の体験だけを抜き出して戦争の全体とするのは、正確性を欠く。
これは、総力戦でなかったとしてもあてはまることが多い。戦闘集団は、一年中ずっと戦闘をしているわけではない。生活に衣食住は不可欠だし、それらを運搬するにはまた別のリソースが必要だ。自分の次の世代にも集団を維持させたいなら、子供を産み育て教育するシステムや設備も求められる。現地からの略奪で戦時の補給を賄った軍隊も多いが、戦闘集団は戦争をしていない時間のほうが長いのが普通なのだ。
こういった、戦闘を主眼としない戦争分析に基づいたストラテジーゲームは、無数に存在している。最も有名なのは「シムシティ」のような箱庭系ゲームで、プレイヤーは国家や都市の政治と経済をやりくりしながら、ときには外敵との戦いにも対処しなくてはならない(「シムシティ」では外敵と戦って勝つことはできないが)。軍隊を動かし敵の領地を占領することだけが、戦争ゲームではないのだ。
戦争は政治のいち手段という言葉があるが、そもそも政治とは議会や政府といった社会システムとは異なる階層に属している。議会や政府がなくても、人間がいる限り、政治はそこにある。なぜなら政治の根源とは、人が生きることそのものだからだ。そしてその政治のひとつの形態として、戦争(闘争)は常にありうる事態として想定されてきた。近代的な社会とは、そこで起こりうる無制限・無差別な戦争を防止するシステムを構築しようとした結果とも言える。
一方これは、我々は常に擬似的な臨戦状態にあるという見方もできる。我々は無制限で無差別な戦争を避けるために、あちこちで契約を結び、自分たちの利益(=より良い生存)を確保するために交渉し、協力関係を構築する。それらは有事において暴力装置を駆動させる回路ともなるし、逆に有事において契約・交渉・協力関係の確立が進むのは生存戦略として極めて妥当だ。
結局のところ、戦争は生活と同じ平面上に存在している。そして今この瞬間も、我々の日常生活と深くリンクしているのだ。
徳岡正肇
ゲームコラム (Si-phonGameClubVol.4より転載)
【勝者のない世界─誰が為の戦争か─】
世に戦争を扱ったゲームは多いが、「なぜ戦争をするのか」まで踏み込んだ作品は稀だ。大抵の戦争ゲームは、勝利条件を満たすために戦争をすることになっていて、ではなぜ勝利条件を満たさねばならないかということになると、「それはゲームだから」という答えになる。だが例えば三国志において、三国が鼎立したままでしたという結論は、完全にあり得ないのだろうか? あるいは、それを目指してはいけないのだろうか?
「なぜ戦争をするのか」すなわち「この戦争を、何のために行っているのか」という問題は、ゲームの構造そのものに関わっている。戦争における個々の戦いは、その戦争の目的に応じて意味が変わってくるからだ。撤退すべきか否か。どの程度の損害までであれば許容できるのか。敵対国が一切の妥協をできなくなるくらい、追い詰めてもいいのか。
古色蒼然とした言葉だが、戦争とは外交のいち手段であり、外交とは政治の延長線上にある。一定規模以上の視点(つまり国家の方針を決定できる・すべきレベル)で行われる戦争指導には、政治的な観点が欠かせないし、そもそもそれなしでは戦争を終えることができない。「地図をすべて自分の国の色で染め上げること」が戦争の目的であるなら、その戦争は世界を征服するまで止められない――なんと非現実的なことか。もっとも、戦争に勝ったとしても現実世界の土地の色が変わったりはしないのだから、非現実的なのは当然なのだが。
一方、戦う目的を自分で決定できるとして、ではなぜ戦わねばならないのだろう? 勝利のため? であるなら、そもそも勝利とは何だろう? 例えば、アレクサンダー大王が率いるマケドニアは、勝利したのだろうか?
答えは非常に難しいが、ひとつだけ言えるとすれば、マケドニアは現在主権国家として存在しており、「現時点において負けてはいないと推定される」。
歴史において、勝者など存在しない。あらゆる国家や組織は、いつか何らかの形(侵略者かもしれないし、流行病かもしれないし、 組織の自壊かもしれない)で訪れる敗北を、ひたすら先延ばしにすることを旨としている。それほど、「自分たちが存在している」という事実には、価値と意味があると信じられているのだ。そのためなら戦争すら厭わないほどに。
勝つためではなく、滅びないために戦う。この泥臭くも愚かな闘争を、PCのストラテジーゲームはもう少し汲みとってもいいように思う。
徳岡正肇